夜は短し歩けよ乙女

  大分前に見たので忘れていることがほとんどだと思うけど、とりあえずなんとか思い出して記録する。

 

 小説を読んだことが無かったので、あの全てが一晩のうちの出来事だということを後半まで知らなかった。(原作は1年間の話らしい)一晩に様々なことが起こりすぎるのだが、あの詰め込みすぎて濃密でてんやわんやなお祭り騒ぎと、不思議な世界感が合っていたように思う。

 本当に、怒濤の勢いで作品が進み、押し寄せてくるので頭がいっぱいになってしまった。情報が飽和して何だか良くわからなくなってしまう感じ…現実と夢とよく分からない何かをごった煮にして、まるで酔っぱらっているかのように境界が曖昧で、作品から溢れる音も映像も表現も飲み屋の喧噪のようであり、祭りの中にいるような感覚でもあった。

 

 「夢と現実が混交した」「アニメーション」という点で、今敏監督の「パプリカ」を思い出した。けど、パプリカと違ってこの作品はバカと酒と恋(もしくは縁)が大事なので、もっと底抜けに明るくてカラッとしている。 

 

 お祭り騒ぎの一つとして(というか実際学園祭という祭りに関わる行事の一つとして)いきなりミュージカルが始まる時が数回あった。最初は「はい?」と言った感じでついていけず、「この映画合わなかったかな…」と思ったりしたのだが、最後のミュージカルの花澤さんの歌は結構良かった。あんまり歌がうまい設定のキャラでは無いのだと思うが、技術はともかく歌声が良くて驚いた。曲を書きたくなる声というのも頷ける。お祭りに熱狂出来ない冷静な奴は遠くから祭りを見て「あ〜やってるよ」とか「何だアレは」とか、そういう感想を持つのだと思うが、私の作中のミュージカルに対する感情は大体それだったのだろう。

 

 不確かなことがいくつか合って、まずはあの嵐は寂しい人たちが巻き起こしていたということでいいのだろうかということ。もう1つは酔っている人が顔を赤くしているのだと思っていたが、ラストの乙女を見るに、どうも恋をしている人の顔が赤くなっていたらしいということ。それを確認するためにもう一度見たいのだが、近くの映画館ではもう上映が終わってしまった。レンタルか、dアニメストアで配信があれば復習しようと思う。

ライオン(25年目のほう)

 前々から気になっていた映画があったので、夕方以降の時間が空いているし見に行こうと映画館に向かった。その映画館にはそこそこお世話になっているので、お礼じゃないがドリンクと何か食事を買おうと思い、チュトリスとウーロン茶のセットを選んだ。私が注文したシナモン味のチュトリスの調理済みのストックが無かったようで、少し待ってから渡されたのだが、いざ食べてみたら真ん中の方がヒンヤリとしていて、少し残念な気持ちになった。次はポップコーンを頼むようにしたいと思う。

 

 

 

 

「ライオン 25年目のただいま」を見てきた。

 

 

 主人公のサルーは、5歳の時にインドで迷子になった少年である。インドでいく度か危険な目に遭いながらも、収容された施設で運良く養子縁組をすることになりオーストラリアのタスマニアに移り住む。両親に愛情を注がれ立派に育ったサルーは、メルボルンの学校に通っている時、インド系留学生との交流のうちに自分のおぼろげな過去を思い出す。友人にGoogle Earthで故郷を探せると教えられ、幾度もPCに向かうサルー。血のつながった家族のことが何度も脳裏に蘇り、その家族に自分の無事を伝えたいと願うようになる。

 

 中盤まで、サルーと彼を取り巻くインドの様子が映される。5歳のサルーが「自分も力仕事が出来る」と言って兄の仕事に連れて行ってもらおうとする姿、ストリートチルドレンを連行する大人たち(子供たちがどこに行くのかは分からない)、サルーを助けた女性が人身売買の人間であり危険を察知して逃げたこと、児童収容施設の子供に対する乱雑で厳しい扱い、特に(恐らく)性的虐待の為に呼び出されたであろう同じ部屋の少年とその様子、等。

 見終わってから調べてたが、実話の施設は孤児だけでなく、犯罪を犯した少年たちも収容された少年院だったらしい。作中で寝起きするための大部屋に入れられた後、施設の大人が扉に鍵をかけるシーンで「ん?」と思ったのだが、そう言う子供も一緒くたになっていたのだと言うことを知って合点がいった。

 

 同じ部屋の少年は、同じく養子の弟マントッシュの人生でもあったのだろう。利口な子供であったサルーとは変わり、癇癪を起こし自分の頭を何度も殴って暴れ泣き叫ぶマントッシュの姿は、施設で何度も壁に頭をぶつけ、大人たちに連れて行かれる時に叫んで嫌がる少年の姿に重なる。実際に養子縁組が決まるまでの間に、マントッシュは苦しい生活をしていてトラウマを抱えたらしい。

 

 

 作中で一番印象的だったのは、やはり母の愛というものだったと思う。言葉にしてしまうと陳腐だが。作中でサルーは「生母を探すこと(だったはず)はママ(養母のスー)に対する裏切りだ」と言っていた。5歳から25年間育ててくれた母を前にして、インドの家族を忘れることが出来ない、探し出して会いに行きたい、というのは確かに言い出し辛い。今の家族を軽んじるように聞こえてしまうかもしれない。でもスーは気にすること無く受け入れるし、息子の姿を見せたいと言ってくれる。

 生母カムラも息子が帰って来ると信じて、ずっと同じ場所で暮らし続けていた。映画が本編の最後、実際のサルーとカムラ、そしてスーが顔を合わせそして抱き合う姿が流れる。映画の後にそれを持ってこられるとダメだ。泣いてしまう。

 

 奇跡的な再会に至るまでのサルーの苦悩、上手くいかない家族、その遠因であるインド社会などが描写がリアリティのある演技、演出によってより厚みを持っていたのだと思う。悲劇、不運、不幸とも言うべきものたちがあまり押し付けがましくなかったのもそのおかげかもしれない。上空から映したインド、タスマニアの大地がgoogle earthのオマージュであるという意見を見て「なるほど」とも思った。作品のスケール感を感じさせる手法であるとは何となく感じていたけど…。

 

 好きな作品になったし、見てよかったと思う。次の映画館は「夜は短し歩けよ乙女」を見に行く予定だ。

 

 

 

※4/28  恋せよじゃなくて歩けよでした 

 

オデッセイ

 色々あって見たものの記録をした方が良いということになり、こうして筆をとる。

 今日はこれからTSUTAYAに言って借りたDVD/BDを返さなくてはいけない。だが、4枚中2枚しか見ていない上、その2枚のうち片方は過去に視聴済みだったこともあり半分見て満足して終わってしまった。タイトルは『ラストサムライ』である。

 結局、唯一ちゃんと見たと言える1枚が、記事タイトルの「オデッセイ」だ。1度しか見ていないので不確かな部分もあるが、もう見返している時間もないので取りあえず覚えている範囲で感想を書く。(また借りてくれば良いのかもしれないが、私の性格からして借りてきても見るかどうか自信が無い。)備忘録でもあるのでかなりネタバレしている。

















 物語は火星で始まる。主人公のマーク・ワトニーはNASAの宇宙飛行士で、<アレス3ミッション>をこなすクルーの一人だ。彼を含めたクルーの6人は、ミッションの遂行中に火星の大規模な砂嵐に遭遇する。船長はミッションを放棄し火星を脱出することを決断するが、退避の途中、暴風で折れたアンテナが飛んできて、ワトニーはアンテナ共々吹き飛ばされる。嵐の中ではワトニーを見つけることは困難、かといってそれ以上留まれば全員に待つのは死しかない。(記憶違いでなければ、ワトニーの生命を示す信号も途絶えていた。)クルーたちはマークを死亡したと判断して、彼を置いて宇宙へ飛び立った。

 しかし、ワトニーは死んでおらず、基地になんとか戻って自分にブッ刺さったアンテナを引っこ抜いて治療、残された物資を確認して自分の命の期限を悟る。が、悲嘆にくれるのはほんの少しの間で、すぐに「こんなところで死ねるか」と行動を起こす。


 ここまでが大体の冒頭だ。


 ワトニーは自身の専門である植物学を中心に待てる全ての知識を生かして、4年後の<アレス4ミッション>で再び火星に人間がやって来るまでどうにか生き抜こうとする。

 具体的に言うと、感謝祭の為に取ってあったジャガイモを見つけて、火星の土とこれまでのクルーのウ○コをでそれらを育て始める。育てる為に水が足りないのでそれを作る装置を作る。ジャガイモ収穫してまた育てながら、4年後のクルーの着陸地点まで向かうためにテストを繰り返す。かつて火星に落とされたパスファインダーを回収して地球との通信を図る。(この時、地球側も火星を観測する衛星に映された様子からワトニーの生存を確認、彼の目的を察知して動く。)

 火星でのシーンは生存のための活動の様子と、記録のためにモニターに話しかけるワトニーで占められるが、彼はこの状況で冗談をとばしまくる。地球にいるNASAの人々や彼を置いていったクルーたちが重苦しい雰囲気を漂わせている時、ワトニーは大音量でディスコミュージックをかけながら「船長が残していった音楽の趣味が最悪で死にそう」とか言ってるわけだ。

 状況はめちゃくちゃ悲惨だけど、作中のワトニーはかなり前向きなのだ。悲嘆する場面はほとんど無い。問題しか無い状況でそれらを解決するために動く。一つが解決すれば次の問題に取りかかる。それを繰り返していく。

 ストレスの少ない話運びも、度々かかるディスコミュージックも、生と死の狭間のギリギリの緊張感とか、極限状態の苦悩とかを求めている人には合わないはずだ。試練ももちろんあり、ワトニーがやり場の無い思いを爆発させるシーンもある。が、やっぱり割とすぐに動きだす。しょうがない、そうしないと死んでしまう。

 私には、どんな状況でも明るく、笑いを忘れず、そして知識をもとに考えて確実に問題を解決していくその様子が、すごく羨ましく、格好良く映った。そう言う人になりたいという憧れすらある。

 この文章を書いていて、自分の過去を思い出す。東日本のあれやそれだ。あの年に私は福島のとある場所で高校生になった。家は波にさらわれた。でも、割とすぐにみんなそのことをネタにして冗談を飛ばしたり、笑ったりしていた。いつ家に帰れるのか分からない新しい友達も母親のママ友もそうだった。私の周りの何か失った人はほとんどそうだったように思える。(もちろん、人の生死に関してそういうことをいう人はいなかったけど。)この手のネタは相手を選ばないと空気が凍り付いて相手は必ず「あ…ごめん」「バカお前!」というやりとりが起こるので、もっぱら失ったもの同士で起きていた。

 どうなってようが取りあえず生きていかなきゃいけないのだから、笑いにしてしまおうとしたのかもしれないし、笑わないと生きていけなかったのかもしれない。ワトニーにもそういう心があったんじゃないかと思う。

 そう考えると、ますますワトニーのようになれれば良いなと思う。ワトニーのようにと生きていたら、楽しくて充実した生き抜き方をできるような気がする。そして誰かに力を与えられるようになるのかもしれない。

 
 
 
 
 

ユーリ!!! 7話までを見て

 考えをまとめるために書く。大したことは書けないし、いきあたりばったりで矛盾もあると思うので、もしなにか思う人がいたら質問して下さい。私も考えたいので…。

 

 

 世間でも結構言われていると思うけど、勇利は自分が思っているほど普通じゃない。(ヴィクトルは3話の時に個性の意味では凡庸だと言っているけれど…)「どこにでもいるフィギュアスケート強化選手」と本人は言うけど、今はその強化選手は勇利一人だし、GPFに出てる時点で相当な実力者であることは視聴者もみんな分かっている。

 でも、勇利はずっと自分に自信が持てないでいた。だからそんな自虐じみた表現をした。勇利の自信については3~4話、7話の辺りで描かれていて、まさにそれを身につけてきている真っ最中だ。

 自信を持てずに失敗が多い勇利の姿を見てきた周囲は、勇利のことを「天才ではない」と思っている。ミナコ先生は「天才じゃないけど、環境には恵まれていた」と。その環境こそが周囲の勇利に対する愛が現れたもので、ヴィクトルと出会ってから勇利は一人じゃないこと、みんな自分を尊重してくれていたことに気づいてその愛の存在が分かるようになる。「Yuri on ICE」で愛を授かっていた自分の競技人生をプログラムにする。

 

 これは私が個人的に思っていることだけど、『ユーリ!!!』の世界の愛は、真摯に向き合い信じることなんだと思う。そこには性別は関係なくて、人だけがある。その存在を愛する。この時の相手は他人であったり、家族であったり、自分であったりする。

 勇利は愛に気づいて、外に目が向くようになった。そのうちに自然と、自分が愛を与えるということも無意識にやり始めているんじゃないだろうか。その相手が尊敬と憧れの対象であり、愛を気づかせてくれた人であり、今はグランプリシリーズに共に立ち向かうヴィクトルだった。

 7話で不安に陥りながらもヴィクトルが離れていくことは無いことを「知ってるよ!」と叫ぶ勇利はヴィクトルという人間を信じている。ヴィクトルと時間を重ねてきたから分かっている。それが愛なんだ。

 対して、ヴィクトルが勇利の不安を分かっていなかったっていうのは結構酷い話でもあり、ヴィクトルの他人を気にしない性格が現れた「らしい」部分でもあり、また別の意味で興味深かった。

 ヴィクトルは「何を考えているか分からないが世界を驚かす天才」として最初に描かれていた。それに勇利もユーリも世界も振り回されている。しかし、4話で勇利が愛に気づくようになってからヴィクトルの内面が描かれることが増えてきた。(5話のスケーティング中のモノローグとか)天才は遥か高いところにいる何を考えているか分からない神様みたいなもので、そいつが徐々に地に足を付けた存在として表現されるようになって、駐車場のシーンのやりとりで「天才だが完全ではない人間」になった。

 この、4話を超えてからヴィクトルの内面描写が多いと言うのがおもしろいと感じた。

 愛に気づいた勇利は、変わらないもの・変わってしまったもの、そこに何があるのかよく見えると言っている。世界がよく見えるようになったんだ。それにシンクロしてよく分からなかったヴィクトルの描写が増えることに不思議な因果を感じている。個人的にそう感じているだけでこじつけだろうけど…。

  駐車場のやりとりからの泣いた後の不思議と清々しい気持ちで始まった演技、本当に良かった。勇利の「ヴィクトル驚くかな」「もっと強くなれる」「ヴィクトルの想像を超えられる」という熱くなる展開。アスリート勝生勇利の姿に感動した。

 ヴィクトルは色々なものを勇利に与えて、返ってきたものがヴィクトルの代名詞をヴィクトルもやらないような形で飛んで驚きを与えることだったと思うと、問題のラストシーンも「そりゃしちゃうよな」と思える。ヴィクトルが最も求めることの一つが驚きだし。

 「僕、良かったでしょ!?」もその一言に成長が見えてとても嬉しくなった。そう言えるようになったのも多分愛のおかげなんだろうなぁと思う。

 

 

 ありきたりなことしか言えなかったけど、こんな文章を書いてしまったのも7話のせいだ。本当にすごかった。なんかめちゃくちゃ興奮して何度も見てしまったしすごく考え込んでしまった。愛の形について考えたり、表現に携わる人は余計にそうだったと思う。 

 気になることもいくつかある。

 ヴィクトルはイマジネーションの枯渇とか、老いとか、結構追いつめられた状況にいると思うけど、自分の選手生命に対する内心の吐露が今のところない。復帰に関わることなのできっと語られると思うけど…。

 あと、勇利がフリップで終わるのか、ということも。ヴィクトルの想像を超えてもっと強くなろうとするなら、世界で初めて公式試合で飛ぶジャンプを手に入れることが選手勝生勇利のフィニッシュになるような…。

 

 何はともあれ、これからも見守り応援していきたい。

 ここまで読んで下さりありがとうございました。